エルメスのフォーブル接客係「ジニー」

フォーブルの接客係「ジニー」

「ジニー」とはタンザニアのダルエスサラーム生まれのエルメスを支えてきた1人の女性です。そのエルメスで必要とされた彼女の人生の歩みについてご紹介いたします。彼女は幼い頃、背丈は足りないながらも、キャビンアテンダントになる事を夢見ていました。当時は、周りには仕事をしている女性はいませんでしたが、彼女は「人生の中できっと、「接客」に関わる何かに出会うはずだ」と信じていたのです。そして彼女が最終的に見つけたのは、エルメスのパリのフォーブル店の接客係です。それは「接客」という言葉では留まらない魅力的な仕事でした。なんといっても、彼女にはこの職業はぴったりだったのです。しかし、そこに就くまでの道のりはきびしく1966年に地域のイスラム教指導者に見守られ、義兄弟と結婚し、マダガスカルに移住後、息子を1人もうけました。しかし、1973年に暴動に巻き込まれ2人は全てを失いました。その後フランスに移住を決心します。そこに女性の権利が認められているカナダに移り住んだ親族が、仕事についてアドバイスをしてくれました。それは「英語やフランス語を話せるジニーには、夫はテキスタイル産業で働いていた事もあるので、パリの大手メゾンに連絡を取ってみては」と彼女はその日のうちにすぐにランバンとエルメスに履歴書を送りました。するとエルメスから面接の連絡がすぐに来ました。しかも彼女はこの大手メゾンの面接で嘘を付いたと言っています。これについては後悔していないようで、英語で面接を行われていたようですが、全て質問には答えたようです。

そうして、はじめは4ケ月間の契約で採用されたが、その後エルメスに38年間も務める事になろうとは知らずに、彼女の運命が動き始めたのです。採用当初は裁縫や片づけなどの仕事をしばらくこなし、その後、彼女は初めての接客を行います。しかもその初めてのお客様が「エリザベス・テイラー」でした。接客には緊張して震えながらも、完璧な英語でしっかりと対応し、適切なサイズの洋服を選んで提案しました。その接客にはエリザベス・テイラーは非常に喜び、4組のアンサンブルを購入していきました。こうして彼女は自信をつけ、販売や発注、修理など、あらゆる仕事を的確にこなしていきました。ジニーは、経営陣が入れ替わり、いくつもの改装工事が行われ、さまざまな部門が移動し、フォーブル・サントノーレ24番地が華やかな発展を遂げていくのを、その目で見届けてきたのです。

これを機に彼女は自信をつけ、販売だけでなく発注、修理あらゆる仕事を的確にこなしていきました。その後ジニーは、経営陣が入れ替わり、様々な改装工事が行われ、部門も移動し、フォーブル・サントノーレ24番地が時を追うごとに華やかな発展を遂げていくのを、その目で見届けていたのです。その間にジニーは語学が堪能なだった為、英語、フランス語を磨き続け、スワヒリ語、シンディー語、マダガスカル語、インドの地方の言葉のグジャラート語やカッチ語を学び、その中の1つとして日本語も少し話せたと言っております。しかし、結局彼女が愛したコミュニケーションは世界共通の言語との事でした。それは言葉を口にしなくても思いが伝わる、身振りや微妙なニュアンスで思いを伝えるボディランゲージを重視したのです。これは入店するお客様すべての人に気を配り、優雅な微笑みと気品あふれる挨拶、新しいお客様のニーズや要望を素早く見抜き、顧客との何ともない何気ない会話までもしっかりと覚えてる事。それが、彼女が最も重要視し大切にした「言語」だったのです。

そんな彼女のエルメスでの人生の中で最も印象深いのは、エルメスで働き始めた当初2つの出来事だったと言います。

その1つが、1982年にレイラ・マンシャリが手掛けたとされる伝説的なウィンドウ・ディスプレイ「la chasse indienne(インドの狩猟)」にインスピレーションを得てテーマにしたカクテルパーティーが開催されました。このパーティにはインド大使が参加する予定となっており、ジニーが民族衣装のサリーを着て大使をお迎えする事になりました。彼女はすぐに、特別なサリーを用意することを思いつき、シルクのカレを6枚繋ぎ合わせ帯状にし、ドレープを寄せベルトをあしらい、インドとメゾンエルメスの友好を象徴する素晴らしき衣装を誕生させたのです。この衣装はインド大使に大好評で、それ以来、毎週金曜日になると、イスラム教の礼拝に行く前に必ず別の儀式を行うのが習慣になりました。彼女は毎週、特別なサリー姿で仕事をするようになったのです。毎週金曜日にブティックを訪れたお客様はちょっとした異国情緒を味わえたのです。

もう1つは1984年、彼女の重要なお客様の1人、広島平和記念資料館や広島平和記念公園を手掛けた建築家「丹下健三」氏が、ジニーを2週間の旅行に招待します。東京、京都とクアラルンプールを訪れるパーソナルガイド付きの旅行でした。いつもお客様をもてなす「接客」を行ってきたジニーはこの時お客様として初めてもてなしを受ける喜びを味わったのです。それから約30年後、ジニーに訪れた最も貴重な瞬間とも思える時間は、残念ながら悲しい思い出となりました。死に至る病を患っていたエルメスのシャン=ルイ・デュマの元を、彼女は2度訪れました。1度目は、雨の降る日でした。ジニーはオレンジのサリーを身に纏い見舞いに行きました。2度目の見舞いでは、サリーを纏いブレスレットを鳴らしながら彼のために踊りました。彼女に大きなチャンスをくれた大切な人との、様々な多くの思い出が駆け巡ります。そしてシャン=ルイ・デュマはジニ一にこう言いました。「君は輝いている。君は私の太陽のようだ」と。彼女はこの言葉を、お守りのように大切に胸にしまっていると言います。彼女の豊かでもあり波瀾万丈で着実な変化に富む人生を2つの言葉で表現するなら、「サリー」と「微笑み」と挙げるべきでしょうか。フォーブル・サントノーレ24番地にあるエルメスのブティックが、『不思議の国のアリス』の空想の世界のように消え去ってしまったとしても、ジニーの微笑は永遠にこの場所に彩り続けることでしょう。

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